平 尾先生がおっしゃる「遊び」というのは、僕もたいへん重要なものだと思っています。とくに組織ということを考えると、「遊び」がないとうまくいかないものです。いろいろな意味で「遊び」という言葉を使いますが、プレーも遊びだし、揺らぎの部分も遊びです。それから、曖昧さも一種の遊びのようなものだと思います。曖昧ということは不確かなものですからあまりいい意味に取られないけれど、それは多様性でもあるような気がして僕は好きなんですよ。先ほどおっしゃった「自在連結」も、多様性でしょう。
今 田そう、多様性なんです。
平 尾多様性というのは、遊び心がないと出てこない。始めから「これだ」と決めてしまうと、そのパターンにはまったときはすばらしいけれど、はまらなければ破綻してしまいます。でも、曖昧さ、つまり遊びの部分を残しておくことで、方向を変えるとか、別の人と手を組んでまったく違う形を作り出すとか、別の道を作り出すことができる。むしろ、生産性を上げたり効率をよくしたりするためにも、曖昧さはある程度必要ではないでしょうか?
今 田結局、それが本当の意味での合理性といえるでしょうね。
平 尾はい。「目標を達成する」ことを行動の基準にするなら、合理的というのはそれに近づくために無駄を全部省いていくことではなく、そこに曖昧さを残していくことだと思います。たとえば、個人がある程度自由に動けるようなスペースとか。それがなければ、目標を達成できる確率はすごく低くなる。
今 田遊びの議論をしたある社会学者が、「遊隙(ゆうげき)」がないと遊びは起きないと言っています。今、平尾さんがおっしゃったように、余白がまったくない状態だと遊べないんですよね。隙間があるから、右に左に、上にしたにとフラフラ揺らぐことができる。それが必要なんです。そういった考えは、企業の経営論の中にも出てきていて、これからはフレキシブルなスペシャリゼーション、つまり柔軟な専門家が必要だという考え方なんです。専門家でなければいけないけれど、「私はこれしかやらない」というのではなく、専門性を柱にしながらも柔軟な行動力を持つことで組織の生産性が上がるということなんです。
平 尾なるほど。遊び、揺らぎを持った専門家が必要であると同時に、それをうまく使えるように組織も変わらなければなりませんね。
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