今 田今は、体制が悪いからぶっつぶせという時代ではなく、たとえば境界線の辺りにいて右に左にと揺らぎながら中心に収まっている人たちに刺激を与えて「変わろう」という意識を発生させる、そんな変革の方法が受け入れられる時代です。平尾さんはそういうことをずっとやってこられた。意識してこなかったかもしれませんが、私の位置づけでは「システムは最後や」という平尾さんの言葉は、いわば境界線の辺りで発せられたもので、それが既存の考え方にとらわれている人々を刺激して変革していったように思いますね。
平 尾なるほど、そういう見方もできるのかもしれないですね。僕にしてみたら、ごく当たり前の現場の理論なんです。つまり、システムは最後ということを個人レベルで認識することは、「お前ら、システムに頼るなよ」ということなんです。つまり、個が強くならなければならない。さらに、それを認識すると「オレたち個人個人が強くならないといいシステムは作れない」という感覚が生まれる。それが大切であって、システムに寄りかかっていてはしょうがないでしょう。
今 田そうですね。日本の組織はシステムに頼りすぎる傾向があるように感じます。
平 尾さらに、「システムは最後」とういう認識で個人個人が能力を伸ばしたら、組織側はそれを受け入れてあげなければ。たとえば、スクラムハーフが20メートルのパスを放れるようになったら、スタンドオフは20メートル遠くに立たせることが可能です。それなら、そういう戦略を組んでみる。自分がスキルアップしたことが戦略に取り入れられるわけですから、もっとがんばろうという内発的なモチベーションになる。「あと5メートル長く放れたら、どんな戦術が組めるんだろう」というイマジネーションもふくらむでしょうし。ところが、20メートル放れるようになっても、いつもスタンドオフとの距離は15メートルで「オレらのやり方はこれだ」といっていたのでは、パスの練習もしたくなくなる。
今 田それでは、個人の技術アップなんか必要ないわけですね。
平 尾さらに、“システム”という言葉を使うとき、ほとんどが組織の戦略システムを指しています。ところが、それは個人によるところが大きくて、情報化社会になればなるほど、戦略システムは短時間で陳腐化してしまいますよね。
今 田そうですね。
平 尾昔なら、たとえばうまい作戦をひとつ作れば、4年後のオリンピックまでその戦略でいこうということができた。ところが、今のような情報化社会では解析するシステムもものすごく進んでいるから、次の試合には全部わかってしまうこともある。そうなると、戦略システムを持つのではなく、むしろ育成システムが必要なんじゃないでしょうか。個人をどう育てていくのかという一貫性のある強化システムが。それを持っているところが、強いんだと思います。ゲームをしながら「この相手には、こういう攻め方がいいんじゃないか」と個人が戦略を随時考え出して、その場でチームメイトとゲームに作り込んでいく。そういう能力のある選手を育てるほうが、ずっと効果的です。
これは、日本の製造業にも通じるところがあって、昔に比べ日本の技術は短期間で第三国にマネされてしまう。当然、賃金の安い国にはかなわなくなるわけです。そうなるとスポーツでもビジネスでも、戦略システムよりも個人の感覚やヒラメキ、技術などといったものを、先生の言葉でいう「自在連結」していくことが必要になってくる。これからの時代、そのときの環境に適したものを随時作り込んでいく能力が要求されるのではないでしょうか
。
今 田おっしゃるとおりで、戦略というのはすぐにマネられますね。となると、常に戦略も生成変化していかないと。そこで必要なのは、プレーに参加するメンバーそれぞれの生成変化能力ですね。そのためには、それなりの教育が不可欠ですが、日本では「教」ばかりで「育」のほうがおろそかにされています。教えるだけならば、指導のマニュアルを見れば誰でもできる。でも、育てるためには、その人の潜在的能力を見出して、それを発揮させるために情報や栄養を与えてあげなければならないわけです。子どもはもちろん、スポーツの選手や企業の社員でも同じだと思いますが、その人のライフサイクル全体を見てどれだけ潜在能力を発揮して社会に貢献できるかという視点で育てることが大切ですね。
平 尾そういった認識は、絶対に必要だと思います。
<<つづく>>
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