平 尾さきほど「活私開公」のところで、“私”を犠牲にしなければならないなら“公事”はやらないという風潮が出てきたとおっしゃいましたが、それは「いかに生きるか」という個々の価値観にも関わってくることですね。
今 田そうですね。人間というのは、機能合理性を徹底するだけで満足できるわけではなく、意味の自己実現、要するに「意味作用」というのが重要なんです。とくに、これからの社会を考えていく上で、これを無視することはできません。つまり、「Having」という“所有”のレベルでは済まなくなり、「Being」という“存在”レベルまで視野に入れた社会の仕組みが必要になってくる。たとえば、管理されて成果を上げることはできたけれど、疲れ果ててしまい「私の人生は何だったのだろう」で終わってしまったらしょうがない。そこで「Being」ということになるわけです。そして、その部分の関心を満たす議論をしているのが、冒頭でお話ししたニーチェやベルグソンなんです。
平 尾“意味作用”という言葉が出てきましたが、例えばラグビーで言うなら、既成の戦術をきちんと踏襲したところで、それはちっともおもしろくないわけですが、「もっとおもろいプレーを」というのが“意味作用”ということに当たるとも思うのですが?
今 田そうですね。意味作用というのは文化にもつながっていて、オランダの文化史学者、J.ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』(“遊撃する人間”の意
)という著書の中で、「文化は遊びの中で始まり、はじめのうち、文化は遊ばれた」といっている。遊ばれなければ新しい文化というのは出てこないんです。一見、遊びというのは、何の役にも立たず、薬にもならず、成果も期待できないため、「残余」として位置づけられてきたけれど、ホイジンガはそれは「残余」ではなく、遊びの中にこそ新しい文化の創造という芽があるといっている。先ほど話題にのぼった枠に収まらない人間というのは、いわば遊び性の領域にいるわけです。効率とか合理性ということに視点を置けば、「真面目にやらずに、何をやっているんだ」と見られてしまう。そこを、今後、どう見直していくか。そこに遊び性の理論を組み込むために、“意味作用”ということを考えていかなければいけないと思っているんです。
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