玉木今、柔道の団体戦という話が出たけれど、あれも同じようなもので、「団体戦」という競技が作られているから、みんなそれを利用してまとまろうとするわけです。だって、みんなで一致団結して「ファイト」とか「がんばれ」などと声を掛けたところで、柔道が強くなるわけはないんだから。だから、むしろまとまることが目的になっている。
平尾なるほどね。
玉木でも、ラグビーとかサッカーはチームプレーなんて言わなくても、点を取るためにチームプレーをするのは当たり前になっている競技でしょう。ところが、日本の場合はそこにも野球の意識というか、考え方が相当入ってきてしまっている。
平尾まさに、その通りなんです。
玉木それについて、ちょっとおもしろい話があって。実はJリーグが始まったころ、家でたまたま子供と一緒にテレビで試合を見ていたことがあるんです。そうしたら、当時まだ市原の選手だったリトバルスキーがドリブルで3人ぐらい抜くシーがあって、そのときにベテランのアナウンサーが「見事な個人技です!」と絶叫したんですよ。「見事なドリブルです」よと。ところが、一緒に見ていた息子はまだ幼稚園だったけれどサッカーをやっていたから、その友だちと一緒になって「逆サイド! 逆サイド!」と叫んでる。画面に向かって「ちゃんとスペース見つけて、早くサイドチェンジしろ」と叫んでいるわけですよ(笑)。
平尾アナウンサーより子供たちの方がスペースが見えているわけですね。
玉木そう。これも一種のスポーツインテリジェンスでね、選手の動きを見ながらスペースを見つける視野だとか、どこにパスを出したらいいかといった判断力も必要になってくる。そうなると、世代論にもなっくるんだけれど、このアナウンサーのように野球で育った世代というのは、どっぷりと野球に浸かってしまっているから、どうしても個人技に目を奪わてしまって、それ以上の発想がなかなか生まてこない。
平尾確かにそうですね。
玉木それと同時に、野球を通して「日本人的」というものが構築されてしまったことの影響もあると思う。たとえば、日本の野球はバントが多くて、それを「犠牲的精神によるチームプレーの賜物」などと言っている。また、それが「日本人的」ものだとも思われている。しかし、野球は所詮、点をどう取るかのスポーツなのだから、バントがいいのか打つ方がいいのかというは、その場の判断の問題でしかない。犠牲的精神なんて、どうでもいいわけですよ。
平尾そうですね。今のバントの話で思い出したんですが、去年の暮れに阪神タイガースの監督だった吉田(義男)さんとお話しする機会があったんですよ。あの方は、監督を辞められてから7年間ぐらい、フランスに渡ってのショナルチームで野球の指導をされてたんですよ。そのときの話なんですが、吉田さんが指導を始めて間もないころ、バントの練習をさせようとしたらしいんです。ところが、フランス人にはバントの必要性というものがまったく通じない。「そんなことをしたら、自分は一塁でアウトになってしまう」と言うんです。「でも、それで味方を進塁させるんだ」と説明しても「自分は生きないじゃないか」という感覚らしいんです。ところが、試合の時に「とにかくやってみろ」と無理にやらせたら、「どうやらバントをすることによって点が取れるぞ……」ということが理解できたらしいんです(笑)。
玉木なるほど(笑)。
平尾それがきっかけで、彼らもバントの必要性が納得できたから、練習でも一生懸命取り組むようになり、バントがうまくなった。そういう話なんですが、僕はそれを聞いて「その過程こそが、最も大事なことだ」と思ったんですよ。
玉木そう、すごく大事なことなんですよ、何のためのバントかということが。本来、バントというのは犠牲的精神を高揚させるためするわけじゃないんだから。
平尾そうなんですよ。ところが日本では、意味もよく理解できていないままコーチに言われてやるということが多いでしょう。でも、大切なのは「なぜ必要なのか」という本質の部分。スポーツを技術的に向上させて行くうえでも、このフランス人の話は非常にポイントになると思いました。
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