玉木今の平尾さんの話はその通りだけど、オレはつむじ曲がりだから一言いわせてもらうけど(笑)。「日本人は集団の中で個が埋没している」というけれど、実はスポーツが増幅したんだよね。本当は、それほどでもなかったのかもしれない。たとえば、さまざまな文様の縄文土器などを創造をし始めた縄文時代とか、個性豊かな武将がたくさんいた戦国時代なんて、むちゃくちゃ「個」が台頭していたやないか。つまり、日本人はもともと個が埋没していたわけではなくて、埋没させたい支配的意見、つまりは支配的階級の人たちがスポーツを思い切り利用した結果のことだとも考えられる。

平尾確かに、そういうことも言えるかもしれないですね。

玉木最近、ちょっとおもしろいと思ったのは、西洋人とパチンコに行くと、日本人でもものすごく個になれるということが、実によくわかるということ(笑)。たとえば日本人は台に座って隣の人とひじとひじが触れ合っても、知らん顔して前を見ている。でも西洋人と一緒に行ったりすると、オレが入らなかったら一緒に泣いてくれるし、入れば一緒に喜んでくれる。隣に座った見ず知らずの人に対しても、同じなんだよね。ラスベガスでスロットルマシーンをやってもうけた人は必ず記念写真を撮るけれど、周りにいっぱい人がいるでしょう。スロットルを引いたのは一人だけど、周りの人がみんな喜んで一緒に記念写真に収まるんだよね。そういうことは、日本ではあまりないことで、日本人は意外に「個」なんだと感じるわけですよ。そういえば、江戸時代の宮本武蔵や佐々木小次郎はまったく集団とは縁のない「個」の典型でしょう。それを、日本人はたたえている。そう考えると、どんな国民性や民族性であっても、個と集団の両面を持っているんだと思う。そのどちらをどのジャンルでどれだけ強調するかというときに、日本ではスポーツと集団が一つになってしまった。そして、相互に増幅してしまった。だから今度は、スポーツの側から解体しなければイカンということよ。そう考えれば、根っこはそれほど深くない。新しいスポーツ像とか、新しいスポーツインテリジェンス像というものを、それこそ平尾さんたちがどんどん訴えていくことで絶対、道は見出せるはずだと。

平尾なるほど。ある境目をもって、個が埋没する方向に行ってしまったということですね。

玉木要するに、個と集団の思想というのがあったら、どちらかが上に行ったり下に行ったりしながら揺れていて、明治からは集団が上に出てしまったということ。でも、これからは変わる時代やね、ということも言えるかもしれない。

平尾個が注目されるというか、必要性が高くなる時代になってくる。

玉木そうそう。そのときに、スポーツをやっていくなかで、結果的には個のあり方や重要性といったものをメッセージとして世の中に発信することも可能かなと感じている。基本的にオレは肯定的で楽観的な人間なんで、そんなふうに考えてますよ(笑)。

<<つづく>>

 
 
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