平尾ラグビーやサッカーは、イギリスで生まれた近代スポーツですよね。競技の中には彼らの生活や文化などが脈打っているだろうし、だからああいう競技が誕生したというところもある。ところが我々は、あるときルールだけを持ってきてその競技を楽しもうとした。だから、競技が生まれて発展してきた土壌とは、まったく違うわけですよね。以前、サッカーの岡田(武史・サッカー日本代表元監督)さんとも話をしたんですが、ラグビーでもサッカーでも、それを突き詰めてやろうとすればするほど、壁が遠くなってしまうというか、距離を感じてしまうことがある。それはそういった、生活や文化などの土壌という部分から出てくる問題だろう、と。だから、その距離を縮めるためには、人間の根源的なところ、極端な言い方をすればDNA的なところまで掘り下げなくてはいけないのかもしれない。でも、それが変わるのを僕らは待ってるわけにはいかない。だったら、玉木さんが言われたように、逆にスポーツの側から変化を起こさせるようにすればいいのではないかとで思いますね。
玉木今の話はすごくよくわかる。だけど、もう一つ違った見方もできると思うんですよ。それは、「ひょっとしたら根源的な問題ではないのかもしれない」ということ。そういう仮説が立てられる。つまり、スポーツが日本に入ってきたときに、スポーツとは規則性があって、上意下達的で軍隊的なものと誤解してしまったのであって、日本人の根元的な問題ではないんじゃないかと。オレはね、嘘でもいいから、根源的なものというよりも誤解したという説を広めたほうがええんやないかと思っている(笑)。
平尾なるほど、その方が早いかもしれない(笑)。玉木さんが本(「スポーツとは何か」講談社現代新書)に書いてましたよね、日本人は実はものすごく遊び上手だと。
玉木そう、そう。
平尾昔の日本人は遊び上手だったのが、ある時から何を間違えたのか違う方向へ行ってしまった。根元的にはものすごく遊び上手やということですよね。
玉木江戸時代以前の日本人の状況を見たら、きっとそうだろうと。
平尾もともと遊び上手ということに関しては素地があると考えた方が、距離は近くになるかもしれないですね。
玉木それでも、文化的な差異、違いというものがネックになる部分は絶対にあるはずや。でも、そうしたら日本人的なスポーツインテリジェンスを新たに発見できるんじゃないだろうか。向こうのスポーツインテリジェンスをマネするんじゃなくてね。
平尾その通りなんです。西洋においてはラグビーやサッカーなどのチームスポーツは、ジェントルマン育成の一環だったわけですよね。忠誠心とか忍耐力とか、チームワークなどを養ってきた。西洋では個人主義が成り立っているから、スポーツにそういったものを求めてバランスを取ってきたわけです。ところが、日本人は個人主義よりむしろ集団に個を埋没させることで調和を保っている民族なわけですから、ジェントルマン教育をそのまま当てはめること自体に無理がある。むしろ、自分の得意なプレーをすることで個性を発揮し、個性を出すことによってさらにチーム力を上げていくといったように、日本人に合ったものを見出しながらスポーツに挑んだ方がいいのかなと思いますね。
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