父親の影響で始めたラグビー
5歳ごろ兵庫県川西市の隣にある猪名川町に引っ越してきた際に、大のラグビーファンである父親に引っ張られるように川西ラグビースクールに連れて行かれたのがきっかけで、ラグビーを始めました。結局その後父と同じ大学のラグビー部に入るのですが、今考えれば実は敷かれたレールを走っていたのかもしれません(笑)。
最初は幼いなりにラグビーを楽しんではいたんですが、小学3年生くらいの頃に「なんでこんなしんどいスポーツをやっているんだ?」と、ラグビーが嫌になって、一時期ラグビーから離れた時期もありました。でもやっぱりラグビーが好きで、忘れられなくて。ラグビースクールに戻って、結局中学3年生まで川西ラグビースクールでずっとラグビーを続けました。私が進学した甲陽学院中学校にはラグビー部がないので、平日は学校の柔道部に所属しながら、週末だけラグビースクールでラグビーをするという日々を過ごしていました。
SCIXで過ごした高校3年間
甲陽学院中学校の一年先輩に(同企画で前回紹介されている)志村さんがいらして、川西ラグビースクールでも一緒だったんです。川西ラグビースクールは中学部までなので、志村さんからSCIXの存在を教えてもらって、ぜひ行ってみようということで、高校3年間はSCIXで大変お世話になりました。
SCIXで過ごした三年間は楽しかったのですが、思い返すと不安なこともありました。のちに強豪チームの一軍で活躍するようなレベルの高い選手がたくさんいて、とにかく周りのみんながうまかったので、ついていけるかどうか不安でいっぱいでしたね。また入りたての頃は、中々先輩や同期達の輪に入れず、悩んでいた時期もありました。でも、優しい先輩方がよく声をかけてくれましたし、アフターの練習や試合を通してチームに馴染んでいくことができました。練習後のごはんやたまに同期と行くカラオケ、毎年春休みに行われる鹿児島合宿などはとてもいい思い出です。
伝説のラグビープレーヤーが目の前に
当時SCIXには武藤(規夫)コーチと元木(由記雄)コーチがいらして、「伝説のラグビープレーヤーが目の前にいる!」と物凄く感動したのをよく覚えています。武藤コーチはじめ、神戸製鋼の元選手が教えてくれているというのと、人工芝のグラウンドや夜間照明の設備も含め、とんでもない環境で練習していたなあと思います。そういう方々のプロフェッショナリズムやハングリー精神を教え込まれて、鍛えてもらったなあと感じるSCIXでのラグビーライフでした。そういったコーチや、先輩、同期、後輩に囲まれた楽しい3年間をおくれました。
平尾誠二氏からの言葉
(SCIX初代理事長の)平尾誠二さんとは直接お話する機会はなかったんですが、一度灘浜のグラウンドにいらして新年の挨拶をされたことがありました。その時も「あの平尾誠二さんが目の前にいる!」という事実に感動したのを覚えています。改めて、自分は凄いところでラグビーをしているんだなということを実感しました。その時に、地域に根差した欧米型のラグビークラブを目指しているSCIX創設の経緯などをお話ししていただき、今後も我々に自らの自主性でラグビーを楽しむSCIXの精神を受け継いで欲しいといったお言葉をいただきました。
「歯に衣着せず議論する」これぞSCIXスタイル
SCIXコーチ陣の指導は厳しくはありましたが、精神的なプレッシャーを感じるといったことは全くなく、むしろ「どうすれば上手くなれるのか?」「どうやって勝つための工夫をするのか?」ということを丁寧に教えてもらいました。
武藤コーチ、元木コーチ、今村(順一)コーチ、小山(恵生)コーチといった神戸製鋼でプレーされていたコーチの皆さんに共通していたのは、間違ったプレーやミスに対しては、高校生の僕らに対しても歯に衣着せずいろんな議論をしてくれたことです。
例えば僕がサポートに走らなければいけない場面で、サボっていたりすると、「なぜそこで走らないのか?」、自分が走らないと「チームにどういう影響が出るか」ということを、きちんと正面から丁寧に深掘りして話をしてくれる。そういう意味では厳しいところはもちろんありましたが、それがなければSCIXであそこまで真面目にラグビーができていなかったとも思います。率直に議論していくというSCIXで培われたスタイルは、その後もずっと自分の中にあります。同期でも先輩でも後輩でもお互いに遠慮なく言い合える。それがSCIXのとてもいいところだと思います。
外交官を志した経緯と道のり
3歳くらいまで父親の仕事の都合で香港に住んでいて、その後もインターナショナルスクールに通ったり、川西ラグビースクールでもオーストラリアのクラブチームとの交換プロジェクトでオーストラリアの子どもたちと交流したり、海外の人たちと接する機会が小さいころから比較的多かったんですよね。そういった機会を通じて、自分の日本人としてのアイデンティティを感じるようになったのと同時に、海外の人に日本をプロモートしていく仕事に就いてみたいという思いが芽生えました。
また、日本の近現代史、特に戦史に興味があったことも、外交官を目指した大きなきっかけです。「なぜ太平洋戦争が起きてしまったのか?」「どういう経緯で日本は戦争突入を決断したのか?」「どうすればあの大戦は防げたのか?」ということを考えているうちに、自分が国益に資するような仕事をできるのは外交官なのかな?と、中学、高校くらいから考え出しました。外交官になるには東大に行くしかないと当時は思っていたんですが、地元が関西なので、友達と一緒に関西で頑張っていきたいという気持ちがあって、京大に進路を変更しました。当時は東大にせよ、京大にせよ、箸にも棒にもかからない成績だったんですが、猛勉強の末、京大法学部に合格することができました。京大在学中はラグビー漬けの毎日で、「公務員試験なんて無理だろうな」と外務省職員を諦めかけたこともあったんですが、なんとか食らいついて頑張っていたら無事に試験に合格し、夢を叶えることができました。
外務省のキャリアは東京の本省で2年間経験を積んだあと、その後は必ず2年間の海外留学に出されます。私の場合はそれが英国留学だったということで、昨年の1年目はキングスカレッジロンドンという大学院で、今年はオックスフォード大学でMBAを学んでいるところです。
ラグビーで育まれたハングリー精神
京大在学中もラグビー部で4年間、プラス公務員試験のために一年犠牲にしたというと聞こえがいいんですが、ラグビー三昧な生活をした結果一年留年したので、その一年間もラグビー部に練習に行かせてもらって、たまに試合にも出たりしていました。
ただ、大学時代はなかなかレギュラーが取れず、つらい時期も多かったです。Bチームでは試合でマンオブザマッチをもらえるほど活躍できても、いざAチームで試合に出ると全然ダメで。大藤を文字って「B藤」と呼ばれてイジられていたくらいです(笑)。
私のイジられキャラもあってのことなんですが、もちろんそれは嬉しいはずはなくて。上級生になって(卒業まで)残り時間が少ないことを考えた時に、絶対にこのまま終わるのは嫌だと思い取り組み方を変えました。練習では必ずキャプテンの近くに行って自分のプレーを見てもらうようにしていました。タックル練習の時は、同じポジションの選手の対面に行って、絶対こいつをタックルで倒してやる、絶対こいつのタックルを跳ね返してやるんだというハングリー精神をもって練習にも試合にも臨んでいました。その甲斐あってか、最後のシーズンはAチームに定着することができました。その中でも、引退試合である最後の東大戦で初めてA戦でマンオブザマッチをいただけたことは私のラグビー人生の中でも最高の思い出です。「正しい努力をし続ければ、自分や状況を変えることはできるんだ」「そのためには、目の前の問題から絶対に逃げてはいけない」というハングリー精神やマインドセットは、この時の経験も含めたラグビーが育んでくれたと思っています。
「トライする」ラグビーの精神が今に通ずる
自分のゴールを達成するためならなんでもするというハングリー精神は、ラグビーだけでなく、外務省員になった今でも凄く活きていると思っています。
たとえば今留学しているイギリスの大学では、イギリス人やアメリカ人といった英語圏の学生や、英語が公用語のインドやシンガポールからの留学生に囲まれた中で授業が行われています。周りはみんな英語が堪能だからどんどん手を挙げて質問します。ところが私の場合は、そういった環境で育っていないこともあって、ついつい消極的になってしまう。この50人の中で変な質問をして、変な英語を喋ったら恥ずかしいなという気持ちがどこかにあるんですね。でも、そこで怖がって何もしなかったら結局何も成長しないんですよね。何か質問をしたかったら、とりあえず手を挙げる。ダメでもいいから手を挙げて、喋ってみて、ダメだったらその後考えればいい。そういった「チャレンジ精神の肝」みたいな部分はラグビーを通して鍛えてもらったと思いますし、今現在にも通じていると思っています。
率直な議論についても同様です。相手が言っていることがおかしいと思ったらそれを指摘することは欧米では当たり前の文化なんですが、日本人だとなかなかできないんですよね。相手が嫌に思うかもしれないとか、自分も含め、そういう風に考えてしまう人が多いと思うんです。でも、そこで率直な本音を言い合わないと生産的な議論にはなりません。自分が必要だと思ったことをしっかり相手に伝えるというスタイルもラグビーを通じて育ててもらったと思っています。
理想の存在、故・奥克彦大使
外務省に入って、研修でイギリスに行きます、ラグビーをやっていますと言うと、多くの先輩方に「(イラクで銃撃を受け殉職した外交官)奥克彦大使を目指して頑張ってこい!」と声をかけていただきました。私の口から「奥大使のようになる」というのは大変おこがましいんですが、奥大使は理想像として自分の頭の中にずっといます。
事件当時、私は9歳くらいでした。外交官でラグビーに携わっている方が亡くなったという当時のニュースはよく覚えています。父親からも奥大使についてよく話を聞いていて、「イラク便り」などの著書も拝読していました。ですから、外務省に入ることが決まった時に、奥大使がされたように「ラグビーを通して日英の親善に貢献したい」と思うようになったのは自然の流れだったと思います。
オックスフォード大学に入ったからには、日本人で初めてブルー(オックスフォード大学の一軍選手に与えられる称号)を獲得した奥大使のように、ラグビーで上を目指して頑張りたいと思っています。また大学のラグビー部だけでなく、奥大使も参加されていたロンドンジャパニーズという、ロンドン在住の日本人とローカルのイギリス人で作っているチームにも参加させていただいており、楽しいラグビーライフを送っております。
奥大使メモリアルカップでスピーチ
イギリスでは、奥大使のメモリアルカップが毎年11月に開催されています。一昨年はコロナで延期になってしまったんですが、昨年は例年通り11月にオックスフォードのグラウンドで行われました。私が所属しているオックスフォード大学のラグビーチームと、オックスフォードのOBチーム、奥大使が所属されていたカレッジのチーム、ロンドンジャパニーズの4チームが集まってトーナメントゲームをするという大会です。アフターマッチファンクションも行われ、楽しいイベントでした。私はオックスフォードのキャプテンとして出場し、大会を主催されているレジ・クラークさん(※)の依頼でスピーチもさせていただきました。日本語でできたらよかったんですが、英語でやらされました(笑)。
(※)1980年代前半に神戸製鋼でスタンド・オフとして活躍した経歴を持つ。現在は世界のスクラムマシーン市場最大手ライノ・ラグビーのCEOを務める
ブルーの称号と国際親善
今後の抱負としては、あと半年のイギリス留学期間が終わるまでに、まずは外国人と対等に議論できる英語力を身につけたいです。その後は世界のどこかの日本大使館で外交官として働くことになるので、邦人保護や現地政府との交渉といった大使館業務をしっかりやっていきたいというのが、当面の目標です。その先という意味では、偉大な先輩方、その中のお一人である奥大使のように、外交官としてだけでなく、ラガーマンそして人として大きな人間になって日英親善だけでなく、日本の国際関係に資する人材になっていきたいと思っています。
ラグビーに関しては、ブルーの称号を得られるよう頑張ります。また、奥大使が尽力されたようにラグビーW杯などを含め、イギリスや日本でもラグビーをプロモートしていける仕事に携われたらと思っています。SCIXに遊びに行くような機会があれば、もちろん灘浜のグラウンドには顔を出させてもらいたいと思っています。SCIXの後輩たちには、まずあの恵まれた環境の中で思い切りラグビーを楽しんで欲しい。そして、その経験の中から将来の自分の人生の糧となる何かを掴み取って欲しいと思っています。
奥 克彦 氏
1958年兵庫県宝塚市出身。早稲田大学卒業後、外務省入省。兵庫県立伊丹高校2年生時に第54回全国高等学校ラグビーフットボール大会に出場。早稲田大学でも2年生までラグビー部に在籍。1982年在イギリス日本国大使館外交官補として、オックスフォード大学、ハートフォード・カレッジにて在外研修。留学中もラグビー部に所属し、日本人初のレギュラーとして活躍。2001年10月より、在イギリス日本大使館参事官。2003年4月米国が復興人道支援室 (ORHA) を設立した直後からイラクに長期出張。復興人道支援室(5月に連合暫定施政当局 に改編)と日本政府とのパイプ役を務め、日本のイラク復興支援の先頭に立って活動。2003年11月29日イラク日本人外交官射殺事件で銃撃を受け殉職。外交官として国際親善に尽力すると同時に、日本ラグビーフットボール協会員としてラグビー普及や、ラグビーを通した日英親善にも貢献。
インタビュー・文/中野里美