玉木今日はこうして「スポーツインテリジェンス」ということについて話しをしてきたけれど、こういう新しい言葉やまだメジャーになっていない言葉を一般化するときに、必ずといっていいほど「それは何の役に立つのか」という話になる。でも、僕は結果として役に立つことがあってもいいけれども、最初から言うのはいけないと思う。というのも、スポーツインテリジェンスが何の役に立つのかということ、つまりどういう価値があるのかということを深く考えていくと、スポーツは素晴らしいということを突き詰めなければならなくなる。そうすると、「人間はなんのために生きているのか」というところまでさかのぼった話になってしまう。そんなものは、有史以来、お釈迦様やソクラテスなど、あらゆる人が考えてわからないことだしね。

平尾ハハハハ、そうですね。

玉木わからないものは、わからない。だから、スポーツというのもスポーツの場面で素晴らしければいいわけだし、そのためのスポーツインテリジェンスであると。それが、たまには社会活動の中で利用できてよかったと思うこともある。でも、それを「これは社会活動で役に立つ」と広めるのは、スポーツを逆に落としてることになる。スポーツだけが飛び抜けてすごいわけではなく、かといって低いわけでもない。音楽や演劇、経済や政治などといったあらゆる人間の活動と同じ価値を持っている。だから、スポーツインテリジェンスも、ほかの学業におけるインテリジェンス、つまり数学のインテリジェンスとか物理学のインテリジェンス、、歴史学のインテリジェンスなどと等価値というところで考えるのがいちばんいいことだと僕は思いますね。

平尾そうですね、その通りです。ほかで利用できるかどうかは、受け手側の問題なんですよ。

玉木そう。こちら側から押しつけてはいけない。音楽や美術、演劇と同じように、スポーツも宝の山で、受け手次第でいろんな価値を見いだせますよ、ということ。そのぐらい相対化した見方を、スポーツの世界でもしていかないといけないんじゃないだろうか。

平尾スポーツはスポーツ。それ以上でもなければ、それ以下でもないですからね。

玉木そういうスタンスの中から、フレキシブルなインテリジェンスが出てくる余地は、山ほどあると思いますよ。

平尾そうですね。今日は、スポーツインテリジェンスがさらに深められたという感じがします。ありがとうございました。

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